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水産レポート > 研究 札幌で11月9日 サケ資源と流通をテーマにシンポ 2013/10/08 9:04 am

札幌で11月9日 サケ資源と流通をテーマにシンポ

北日本漁業経済学会第42回大会

各セッション・基調講演、総合討論で課題を掘り下げる

北日本漁業経済学会は、第42回大会(北海道・札幌大会)に合わせて行う今年度のシンポジウムについて「サケをめぐる資源・漁業・流通の諸問題」をテーマに札幌市の北海学園大学(豊平キャンパス)を会場に11月9日午前10時30分から開催する。東京水産振興会との共催。

 学会は11月8〜10日の日程で、理事会および総会を行う。サケを題材とした2日目のシンポジウムは、中央水研の清水幾太郎氏と北大の宮澤晴彦氏、同会会長で茨城大学地域総合研究所客員研究員の二平章氏の3氏がコーディネーターおよび各セッションの座長を務める。

 セッション1は「サケ資源の変化をどう見るか」をテーマに、北大教授・帰山雅秀氏が「気候変動とサケ資源」と題して基調講演を行うほか、1「北海道における秋サケ資源の動向」(道さけます・内水試)2「岩手県放流サケ資源と震災の影響」(岩手県水産技術センター)3種苗放流をめぐる課題「宮城県内水試)―の3つの課題・問題点に関する個別報告が行われる。

 セッション2では、テーマを「サケ漁業と流通をどう展望するか」とし、鹿児島大学教授の佐野雅明氏が「日本をとりまくサケビジネスの動向」と題して基調講演。個別報告としては1「秋サケの流通・消費と価格動向」(北海道漁連)2「定置漁業権の切替とサケ定置の経営課題」(道水産林務部漁業管理課)3「サケ定置漁業と漁業収入安定化対策事業」(道漁業共済組合)―が個別報告される。

 各セッション終了後には、道内の重要主幹漁業となる秋サケの資源と流通、2つの視点にスポットを当てた総合討論を行い、課題などを掘り下げる。

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水産レポート > イベント 10月5日秋さけ祭 札幌駅前で今年も盛大に 2013/09/20 9:35 am

今年も盛大に「秋さけ祭」

10月5日札幌駅前広場で

好評いくら丼無償提供も

 北海道定置漁業協会(阿部滋会長)は、秋サケの魅力や食材としての素晴らしさを札幌市民や観光客に広く知ってもらう目的で、今年も盛漁期の10月5日午前10時からJR札幌駅南口広場で「秋さけ祭」を盛大に開催する。

 生産者らが地元で獲れた自慢の秋サケ製品各種、その他旬の水産物を特売価格で試食販売するもので、今回で3回目の開催。大好評のミニイクラ丼(午前11時〜)、秋サケ鍋(正午〜)をそれぞれ500食限定で無償提供するほか、午後1時からはクイズで景品が当たるステージイベントも盛りだくさん。簡単なアンケートで先着400人にカットトバのプレゼントも。

 【出店産地漁協・団体】宗谷管内枝幸漁協、北見管内雄武漁協、根室管内8漁協、釧路管内釧路さけ定置漁業協会、十勝管内大樹、広尾、大津漁協、日高管内日高定置漁業者組合、桧山管内ひやま漁協

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水産レポート > イベント 佐藤水産が恒例の「鮭まつり」 2013/09/10 9:02 am

佐藤水産が恒例の「鮭まつり」

来週21日から2週末連続で開催
即売・イベント盛りだくさん

 札幌市のサケ専門店・佐藤水産が主催する「鮭の里まつり」が、石狩サーモンファクトリー店(石狩市新港東)の特設会場で今年も今月21〜23、28〜29日の連休に合わせた週末に2週連続で開催される。道内の秋サケ漁本番に合わせて毎年開催されているもので、近隣から毎年多くの買い物客が旬のサケを求めて訪れる同エリアの一大イベントとなっている。

 新鮮な秋サケ、生筋子の即売会に加えて、同社自慢の加工品の試食・特別販売販売、名物いくら丼と石狩鍋の格安提供などが行われる。普段はなかなか目にすることのないサケ、イクラの製造工程を間近でみることができる工場見学やちびっ子たちに人気のぬりえによるサケのラベル作りなど、親子で楽しむことができるイベントも充実。

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水産レポート > 輸出・輸入 サケ輸出 円安背景に端境期も好調継続 2013/09/03 9:43 am

円安背景に端境期も好調継続

7月のサケ輸出実績

 通関統計に基づく7月のサケ輸出実績は単月2893トン、6億3521万円となり、円安を背景に前年同月に比べて数量で4.5倍、金額で3倍と好調に推移している。サケ漁不振に伴う製品相場高騰に加えて原発風評、円高などここ2年は逆風が強く不調だった輸出だが、今年は健闘が目立ち、端境期に入っても数字的には大きな落ち込みなく搬出されている。

 単月実績を国別にみると、主力の中国向けが2105トンとまとまり前年同月の10倍を記録。このほかベトナム向けも459トンと倍増。タイ向けも178トンとほぼ前年並みの水準を維持した。これで累計実績は1万3539トン、30億5284万円となり、数量で8割、金額で2割それぞれ増加。中国向けは8837トン、ベトナム向けも2395トンとそれぞれ前年同期の2倍を記録するなど復調振りが顕著となっている。
 (週刊サケ・マス通信9月3日配信号に掲載)

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水産レポート > 漁模様 <速報>オホーツク海カラフトマス3年連続大不漁が濃厚に 2013/08/21 12:45 pm

オ海マス3年連続大不漁濃厚に


豊漁年も20日現在水揚げ一昨年の半分


 親魚確保のための自主規制明け後の水揚げが注目されていたオホーツクのカラフトマス漁は、再開した8月17日以降の水揚げに例年にような伸びがまったくみられず、道漁連の20日現在の集計で1756トンと同じ豊漁年の年回りに当たる一昨年同期に比べほぼ半減と極めて厳しい状況となっている。

 紋別漁協以北を中心に善戦する地区もあるが、主力エリアの網走、斜里第一、ウトロ漁協ともに勢いがなく、3年連続で記録的な不漁が濃厚な情勢だ。
 (週刊サケ・マス通信8月23日号で詳細・続報)

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水産レポート > 漁模様 オホーツク海建マス、今期も厳しい走り 2013/08/09 9:08 am

オ海建マス、今期も厳しい走り

あす10日から親魚確保の自主規制入り

盛期ばん回期待、浜値早くも300円台も

 オホーツク海の建マス(カラフトマス、オホーツクサーモン)があす10日から15日までの日程で例年通り親魚確保のための自主規制期間に入る。

極端な来遊不振と不漁年の年回りが重なり近年にない大不漁となった昨シーズン、豊漁年ながらも不調に終わった一昨年に比べると水揚げはまずまずで推移する地区もあるものの、不振が表面化する前の平成20年前後の水準に比べると主力エリアを主体に物足りない状況で、規制明け後の盛漁期に挽回を期待したいところ。

 網走海区漁業調整委員会の集計によると、7月末時点の網走管内合計水揚げは約13万尾、重量換算で250トンの実績。早期から漁がなかった前年に比べるとまだ本番前ながら雄武、沙留漁協などで10倍、一昨年比でも2〜5倍の実績としている漁協が多いが、主力の斜網エリアは前年比倍増までは届かず、一昨年同期に比べると網走で7割、斜里第一で5割程度とかなり厳しい走りに。

 管内総体では前年比尾数で3倍、重量で4倍ながら、一昨年比では尾数で3割減、重量でも1割減と不振。
 
 今期も走りの漁が振るわないことを受けて価格は高騰気味で7月末時点で各地300円台前半から200円台後半、平均293円と早くも高値水準が続いている。
 (週刊サケ・マス通信2013年8月9日号に掲載)

ロシアマス不振で状況一転

卵の輸入も様子見の展開に

 (トップ記事から)懇談会の中で、輸入商社の阪和興業が今期海外のサケ・マス生産動向を紹介した。「マスの豊漁年ということでスタートした今期の新漁だが、ロシア・カムチャッカの不漁で状況が一変、魚卵製品含め難しい価格帯となっている」と述べた。

 地区別には「アラスカ方面はマスが後半から持ち直し、チャムも予想水準並みの水揚げだが、カムチャッカの不漁が影響して原卵、イクラ製品ともに様子見の展開。ロシアは現在の主漁場サハリン、クリール方面は順調だが、総体では豊漁年ベースで大幅な減産となりそうで、アラスカ方面のパッカーからの引き合いも強まり、価格的に輸入は厳しい見通し」とした。

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水産レポート > 漁模様 極東サケ・マス序盤不振スタート―ロシア速報 2013/07/19 9:04 am

極東サケ・マス序盤不振―ロシア速報

主力のカムチャッカで豊漁年も直近奇数年に比べ半減

 ロシア漁業庁は、同庁漁業組織局長ゴルニチニヒ氏が議長となって通信を利用した定例の極東地方における太平洋サケ・マス操業会議をこのほど開催した。会議には極東地方の漁業地域管理局、地方行政、研究機関の代表者らが出席。

 この中で今年2013年漁期開始から同年7月15日までの太平洋サケ・マスの生産量が約3万7500トンとなり、直近奇数年の2011年同期に比べて3万4000トンほど下回り、半減していることなどが報告された。

 生産量は現在の主産地となっているカムチャッカ地方(3万3000トン)が大部分を占めており、生産の遅れが指摘されている。操業が開始された他地域の漁獲量は、サハリン州で3600トン、ハバロフスク地方で180トンなどとなっている。
 (北海道機船漁業協同組合連合会提供「ロシア情報ニュースヘッドライン」から)

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水産レポート > 研究 <速報>平成25年全道秋サケ来遊予測3%減の3793万5000尾 2013/07/01 7:32 pm

<速報>平成25年全道秋サケ来遊予測3%減の3793万5000尾

全道秋サケ4年連続4000万尾割れか?今期も厳しい予測に

 道総研さけます・内水試は7月1日、札幌市内で開かれた道連合海区漁業調整委員会の中で今期の秋サケ来遊予測値を前年実績に比べて3%下回る3793万5000尾と発表した。予測通りとなれば4年連続の4000万尾割れとなり、今シーズンも厳しい予測となっている。

 主群は平成21年生まれの4年魚、22年生まれの5年魚で、前年来遊の年齢組成を受けて今年は4年魚が昨年よりも多くなり、一方で5年魚の比率が下がる見通し。

 (地区別・年齢別来遊予測値など記事詳細は7月5日配信号に掲載します)

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水産レポート > 漁模様 今期極東ロシアのサケ・マス 3割減の31万トン台予想 2013/06/21 9:38 am

今期極東ロシアのサケ・マス 3割減の31万トン台予想

マス豊漁年も抑え目の予測量に

 ロシア極東エリアにおける太平洋サケマスに関する産業評議会がロシア漁業庁でこのほど開催され、今年2013年漁期の太平洋サケマスの生産量について、前年実績に比べて約3割減の31万3300トンと予想勧告された。


 予想勧告の魚種別内訳は、カラフトマスが全体の半数強を占める16万9500トン、シロザケ9万1800トン、ベニ4万7000トン、ギン4000トン、マスノスケ808トンなど。


 漁場別では東カムチャツカ沿岸が最も多く9万4000トン以上、次いで東サハリン沿岸が9万トン以上と予想されている。本年漁期は今月5日からすでに始まっており、ベニザケについては、前年同期に比べ1000トン多い6000トンが生産されている。同庁では本勧告量について前年比12.9%増の48万トンまで上方修正される可能性も示唆。


 なお、直近奇数年の2011年太平洋サケ・マスの生産量は53万トンに上っており、昨年はカラフトマス29万トン強を筆頭に合計約42万トンのサケ・マス類が生産されているなど好漁が続いている。
 (道機船連提供・ロシア情報ニュースヘッドラインから)

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水産レポート > 系統団体 28日札幌で燃油高騰対策訴え全道代表者集会 2013/05/24 9:10 am

28日札幌で燃油高騰対策訴え全道代表者集会


道内漁協系統5団体および地区漁協組合長会、北海道水産会は5月28日午後1時30分から札幌市の第2水産ビル会議室で「漁業経営危機突破・北海道漁業代表者集会」を開催する。円安基調に伴う燃油高騰対策の実現を国に強く訴えるもので、翌29日には各県の運動展開を結集する形で全漁連が主催する「我が国漁業の存続を求める全国漁業代表者集会」を東京都千代田区の日比谷野外音楽堂で開催する。


 日本の漁業・水産業は昨今、原発事故による風評被害による水産物消費の減少、価格下落などにより大幅な収入減少が深刻化。一方で円安を主要因とした燃油価格の高騰で経営は危機的な状況に直面している。こうした情勢を受けて特に燃油高騰対策の要望実現に向けては、各県の運動を終結させ全国統一行動を展開することで漁業の窮状を広く国民に訴え、緊急対策の実現を国に対して求める。

 
 全道集会には漁協・系統役職員はじめ関係団体、政党などから200人が参加する予定で決議採択、シュプレヒコールを行い、集会後には札幌駅前の地下歩行空間で道民に理解を深めてもらうためチラシや昆布配布による街頭活動を行う。また、翌日の全国集会には全国の漁業関係者ら2500人が参加、集会終了後には国会周辺でデモ行進を行う。

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水産レポート > 研究 北海道初のサケ人工ふ化施設・幻の「札幌偕楽園ふ化場」−5 2013/05/20 2:56 pm

北海道初のサケ人工ふ化施設

幻の「札幌偕楽園ふ化場」−5

 明治時代初期、産業奨励を目的に開拓使によって道内で初めてサケ・マス人工ふ化試験が行われた札幌市の「偕楽園ふ化場」(北区北7条西7丁目)。試験は一定以上の成果を挙げたものの、効率や立地の問題などもあって残念ながらわずか数年で事業は廃止されることになった。

 この10年後、現在まで130年を超える道内サケ・マスふ化放流事業の歴史の源流となる官営「千歳中央孵化場」が開設される。両ふ化場の間に直接的な関連はないものの、事業化の先鞭をつけたという点で「偕楽園ふ化場」の果たした役割は大変意義深く、後年の評価につながっている。

 連載最終回となる5回目の今回は、先人らの限りない尽力によってわが国のふ化事業が世界トップの技術を誇るまでに至った道のりを大まかに振り返ることで、民営化という再び大きな変革期を迎えている中、ふ化事業の原点を見つめ直す機会としたい。


皮肉にも明治半ばから資源は減少の一途

<ふ化事業成功に至る長く険しい道のり>

 本道ふ化事業の黎明期に存在した札幌偕楽園および函館近郊・七重勧業試験場は、ともに数年のうちにその役割を終えて事業は中断される。ただ、サケ・マスの増殖事業に対する熱意はその後も冷めることなく、各地で民営のふ化施設の整備が始まったほか、新潟県の「種川制」に習った自然産卵保護など資源維持の取り組みが多くの河川で行われた。

 そして1888(明治21)年、この後に北海道庁初代水産課長に就く伊藤一隆の尽力で千歳川に官営の「千歳中央孵化場」が開設される。伊藤は札幌農学校第一期生で、1884(明治17)年には道内水産団体の先駆けとなった北水協会を設立するなど、若くして道内水産界の指導的役割を担った行動派。アメリカで先進的なふ化事業の実態を学び、帰国後すぐに整備に取りかかる。当時のサケ・マス資源は比較的安定傾向にあっただけにまさに「先見の明」と言えるものだった。

 これが刺激となって各地の民営ふ化場の整備もより加速し、明治20年代後半には道内で30ヵ所を超えるふ化施設が運営されるようになった。しかし、皮肉にもこの頃を境として道内のサケ資源は減少の一途をたどる。

 漁業者にとっても研究者にとっても長く続く不遇の時期に入り、目に見えた増殖効果を挙げられない中、官営のふ化事業は大正〜昭和にかけて何度もの変遷を繰り返すことになる。親魚の売却益が運営の頼みの綱だった民営ふ化場も親魚確保すらままならなず、その多くが経営難に陥ることになった。


開設間もないころ、明治中期の「千歳中央孵化場」の様子。道内サケ・マスふ化事業の中核施設として、民営ふ化場の技術指導などの役目も担っていた。







昭和9年に全道のふ化事業が官営に統一化

「千歳中央孵化場」は、道立水試の設置に伴い明治34年にはその分場となる。明治40年には民営の西別(のちの虹別)ふ化場が道に寄贈される。

 その後も国費、再び地方費運営への移管が繰り返されつつもふ化事業は継続され、1927(昭和2)年に第二期拓殖計画が打ち出されたことで国費運営によるふ化場として千歳と虹別に加えて、択捉島に「留別鮭鱒孵化場」を新設。1934(昭和9)年に再び大きな変革期を迎え、全道のふ化事業が統一化、官営の千歳、虹別、留別の3ふ化場に加えて全道38カ所の民間ふ化場が国の運営となる。

 民営ふ化場の経営難の解消という目的のほか、計画的にかつ効率的に事業を図ることで成果を上げたいとの思惑もあった。その後昭和12年に札幌中の島に新庁舎が完成したことで本庁が移転されるが、昭和16年には再び地方費に移管となり、名称が「北海道鮭鱒孵化場」から「北海道水産孵化場」に改称されている。この頃には6支場46事業場にまで体制強化が図られていた。


先人らの努力が結実 100年かけて資源復活

 戦中戦後の動乱期を経て建て直しが図られたふ化事業は、1951年に施行された水産資源保護法に伴い翌年には再度機構改革が実施され、ふ化放流と調査研究を分ける措置が取られる。これにより「道立水産孵化場」と新たに発足した国営の「北海道さけ・ますふ化場」に分離されることになる。

 この頃、米国側は長年に渡って目立った成果を挙げられないでいた日本ふ化事業に対してかなり否定的で、GHQ勧告によりふ化事業は廃止か存続かの大きな岐路に立たされていた。当時の研究者や技術者はこの時の苦い経験を糧に奮発し、組織一丸となって技術向上、科学的知見の収集に取り組むことになる。沿岸定置業者も長年続く厳しい漁場経営からの脱却を目指して、徐々に協力体制を構築していこうという気運が高まりつつある頃だった。
 
 昭和30年代に入ると、ふ化放流の現場で積極的な技術革新が図られるようになる。用水不足を補う立体式ふ化器の導入や健苗育成のための給餌試験などが代表的なものだが、それまで長年に渡って蓄積してきたデータの存在とサケを生き物としてとらえ自然の摂理に合致した地道な取り組みがあったことを忘れてはならない。

 そして昭和40年代半ば、1970年代に入ると実に100年近くに渡って長い間低迷していたサケ資源が明白な増加をみるに至る。この資源の増加傾向が現在では当たり前になっている「つくる漁業」の先べんとなり、その後も資源管理に対する関係者の意識を高め、見事に高位安定した資源を維持するに至っている。

 しかし、近年は各種行政改革の流れでサケ・マスのふ化放流事業は再び民営化の時代に移っている。100年以上にわたって連綿と続く事業の灯火を暗くさせないためにも、関係者一体となった姿勢が問われる時代に入っている。(おわり)


 「週刊サケ・マス通信」2011年4月1日配信号に掲載(参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

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水産レポート > 研究 北海道初のサケ人工ふ化施設・幻の「札幌偕楽園ふ化場」−4 2013/05/16 9:12 am

北海道初のサケ人工ふ化施設

幻の「札幌偕楽園ふ化場」−4

 事業の進展に大きな期待が寄せられた札幌市の「偕楽園ふ化場」(北区北7条西7丁目)だったが、1880(明治13)年、わずか3年余りでサケ・マスのふ化試験は中止される。

 この年には貴賓接待所「清華亭」が同地につくられるが、1886(明治19)年ころになると「中島遊園地」(現在の中島公園)が整備されたことなどから「偕楽園」に訪れる人は減り、公園としての役割を失うこととなった。4回目の連載となる今回は偕楽園のその後と、同地に流れサケがそ上、天然産卵していた「サクシュコトニ川」を紹介する。


ふ化事業と同様に「短命」に終わった札幌・偕楽園

=偕楽園とサクシュコトニ川のその後=

札幌市最初の公園として整備が進められた「偕楽園」は明治時代前期、周辺住民にとっての憩いの場としての役割のほか、サケ・マスのふ化施設を筆頭に道内最初の工業試験場とも言える「製物場」、農業技術研修生の宿舎「生徒館」や「花室」(温室)など、開拓使による産業奨励、試験研究施設が数多く設けられていた。

 近隣には西洋農作物の試験栽培場やブドウ園も存在、西側には養蚕を奨励する目的から大規模な桑畑がつくられ、今も地域名として残る「桑園」(現在でも服飾関連メーカーが多い)、北側には現在の北大構内に道内初の競馬場(円形競技場)もあった。また、園内には西南戦争に従軍して戦病死した琴似、山鼻の屯田兵のための「屯田兵招魂碑」もあり、毎年8月に行われた「招魂祭」は札幌神社の大祭よりも賑やかだったと伝えられている。

1880(明治13)年に建設された当時の札幌「清華亭」。手前には今は現存しないサクシュコトニ川の流れがみえる






 サケ・マスのふ化事業が廃止となってしまった1880(明治13)年には、園内に「清華亭」が整備される。貴賓接待所として開拓史が建設したもので、様式は全般に米国風ながら内部には和室も設けられており、美しい庭園を持つ和洋折衷が特徴の建物。建設翌年には明治天皇の札幌訪問の際に休憩場所として使用された。当時の「偕楽園」を知る唯一の現存物で、その頃の建築様式を伝える数少ない建物(他に豊平館、時計台など)として後に市の有形文化財に指定されることになる。


開拓使の廃止で状況が一変

 産業奨励だけでなく文化的な側面も併せ持った複合的な公園エリアとして機能していた偕楽園だったが、開拓史が廃止され北海道庁が置かれる明治中期に差し掛かるころになると急速に様相が変わってくる。開拓使時代の官営事業施設の民間への払い下げが始まったことに加えて、当時はまだ市街地だった現在の中島公園に新たに「中島遊園地」が整備されたことなどから来園者が減少。

 1897(明治30)年には使い道のなくなった「清華亭」さえも民間へ売却されることになるなど、1871(明治4)年の整備からわずか20年余の短い期間で公園としての役割を失うことになる。その後は再び元来の野原に返り、虫捕りや魚釣りなどをする子供たちの格好の遊び場となった。


昭和初期までは毎年秋になるとサケがそ上

人家が立つようになるのはさらに20年後の大正時代半ばに入ってから。現在の同地には池や河川はなく、その形跡すら存在しない。当然ながら100年以上も前にサケ・マスのふ化施設があったことを知る人も少ない。しかし、昭和初期までは浅い小川ながらも毎年秋には必ずサケがそ上するサクシュコトニ川というきれいな河川が存在した。


 サクシュコトニ川は琴似川の支流の中で最も東に位置した河川。水産ビルの西側に位置する北大植物園の北から湧き出る湧水を源に、偕楽園エリアでさらに同地の湧水と合流、小川と池を形成して北上し北大構内を流れて琴似川と合流していた。河川に沿って続縄文時代(紀元前3世紀〜紀元後7世紀)の集落跡も多数見つかっており、豊富にそ上するサケは古くから現地の人々に利用されてきた。


 明治時代、ふ化試験が中止されて偕楽園が公園としての役目を終えてからも同地に流れ続けていたが、戦後の昭和20年代に入って都市化の進行に伴い水位が低下、まもなく枯渇し、川は一部が埋め立てられ宅地となる。札幌中心部は元来、地下水に恵まれた土地だった。しかし、多くが開発とともに枯渇したり、地下に暗渠(あんきょ)化されており、サクシュコトニ川も同様の命運をたどった。


 近年になってこの流れを復活させようとの気運が高まり、市と北大が連携し2004(平成16)年には北大創基125年を記念して構内に水流が復元されている。河川すらなくなった現地で当時をしのばせる物は今や「清華亭」だけ。ただ、町内会や建物などの名称として100年後の今も「偕楽園」は残っている。また、水は枯れても豊かな湧水があった時の名残りから、以前池のほとりだった現在の緑地内に「井頭(いのがみ)龍神」という水神信仰の社(やしろ)が現存している。(つづく)

「週刊サケ・マス通信」2011年3月25日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)


幻の札幌「偕楽園ふ化場」―5へ

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水産レポート > 研究 北海道初のサケ人工ふ化施設・幻の「札幌偕楽園ふ化場」−3 2013/05/13 3:07 pm

北海道初のサケ人工ふ化施設

幻の「札幌偕楽園ふ化場」−3

 北海道で初めてサケ・マス類の人工ふ化が試みられた「札幌偕楽園ふ化場」(札幌市北区北7条西7丁目)。開拓使によって1877(明治10)年から準備が進められ、まもなく施設が新築されるなど、その後の進展が期待されたが、1880年(明治13)年にわずか3年足らずの試験期間だけで事業は突如中止となってしまう。

 
 連載3回目の今号では、前回に続いて同ふ化場が行った試験の概要に加えて、なぜ試験事業が中止に至ったのか、中止が決まるまでの経緯などについて紹介する。

湧水使いふ化施設新設、長期の養魚試験も

<順調にみえた試験事業のその後>


 事業の本格始動から2年目に当たる1879(明治12)年も盛んに移植放流などに取り組んだ。2月には発眼卵2万9000粒を東京官園・新宿試験場へ輸送。東京官園ではこのうち9000粒をふ化させ、8月に玉川へと放流している。


 11月には場内の湧水河川を利用したふ化施設が新設される。6段のふ化槽を配し、水車によって水を汲み上げる立派なもので、同時期には養魚池の下流に管理目的の水門を設置するなど事業規模を拡大強化。

 
 同月には豊平川産と思われる親魚から24万粒の卵を確保。12月には択捉島産のベニ卵約4万粒を根室で発眼させ、それを搬入する予定だったが、輸送中の函館で大火に遭遇し、到着したのは3000〜4000粒となったとの記録も残る。

わずか3年余りでふ化試験事業の中断が決


 同年の報告書によると、前年の1878年(明治11)年初めにふ化したサケ稚魚は8寸(24センチ)、同年秋に採卵したマスについても6寸5分(21センチ)に成長しているとの記述がみられ、ふ化稚魚を長期間にわたって飼育管理することにも成功していることが分かる。


 さらにこの年には時期不明ながらサケ幼魚約100尾に標識を付けて放流したとの記録も残っている。また、たびたび行われていた卵の搬送については容器内の温度上昇を防止するために氷を使用するなど、現在の考え方や手法と大きな相違のない保冷、防寒のしっかりとした技術的知識を持って事業に当たっていたことが分かっている。


 新たに予算をかけて施設が整備され、事業の順調な進展をうかがわせる資料も残されるなど、その後の事業推進に大きな期待が持たれていたとも想像される札幌偕楽園でのふ化試験だが、1880(明治13)年、担当が開拓使製楝(せいれん)課から勧業課へと担当替えとなったのを機に中止され、この年の放流をもって以降再開されることはなかった。


 主な理由としては、水温の低い養魚池では良好な成育が見込まれない点、より増殖効果が見込まれる河川への変更などが提言されていたようで、あくまで同地でのふ化放流事業が試験的意味合いの強かったことがうかがえる。


 また、当時のふ化放流に対する考え方は本来生息していない良質魚種を繁殖させる手段という側面が強かったこともあり、元から資源が豊富なサケ・マスよりもベニなどの優良他種を念頭にしたものに切り替えるべきとの思惑もあったようだ。ただ何よりもこの時点でのふ化事業継続について、多くの関係者がその困難さを痛切に感じていたということも中止を後押しした大きな要因と推測される。

同時期の「七重試験場」も4年余りで廃止へ


 当時、この「札幌偕楽園ふ化場」とほぼ同時期に本道ふ化事業の黎明期を形作ったもう1つのふ化場「七重勧業試験場」について簡単にまとめると、この試験場も札幌偕楽園(札幌官園)と同様に北海道の産業振興を目的に函館近郊につくられたものだった。


 場内にふ化施設が設置されたのは1878(明治11)年だが、前年秋と推察される時期に予備的ながら人工採卵を実施したとの記録が残されており、札幌よりも約2ヵ月ほど早く人工ふ化に挑戦した形になる。記録によると、1878年に遊楽部川でマス卵300粒を採卵し1881(明治14)年まで約50尾を飼育、翌年には茂辺地川でサケ卵9000粒を採卵し100尾の飼育に成功している。


 ふ化試験は1881(明治14)年までの4年間で、札幌偕楽園と同様に短期間に終わる。ネズミや水虫の被害もあって扱った卵数は少なかったものの、偕楽園ふ化場よりもふ化成績は良好だった。


 また、1879年(明治12)年に茂辺地に設立された民間初の「茂辺地孵化場」と官民の技術交流を多く行うなどの功績も残した。事業の中止は偕楽園と同じく養殖事業として見込みがないものと判断されたと推測されるが、皮肉にも茂辺地の民間施設が本試験場の役割を担うものとして試験打ち切りを促す要因になったとも推測される。


現在まで連綿とつながる本道ふ化事業の源流・官営「千歳中央孵化場」の開設は1881(明治21)年のこと。




 この民営「茂辺地孵化場」は人工ふ化技術による資源の維持を念頭に置いた最初の施設と言われ、本道の人工ふ化事業の原点として位置付けられる。そして1881(明治21)年には現在まで連綿と連なる本格的なサケ・マスふ化事業の本流となる官営の「千歳中央孵化場」が開設されることになる。(つづく)


「週刊サケ・マス通信」2011年3月17日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

幻の札幌「偕楽園ふ化場」―4へ

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水産レポート > 研究 北海道初のサケ人工ふ化施設・幻の「札幌偕楽園ふ化場」−2 2013/05/09 3:38 pm

北海道初のサケ人工ふ化施設

幻の「札幌偕楽園ふ化場」−2


 北海道で初めてサケ・マス類の人工ふ化が試みられた「札幌偕楽園ふ化場」(札幌市北区北7条西7丁目)。当時のふ化試験は一体どのように行われていたのだろうか。

 
 技術的にも施設的にもまだまだ未熟だったであろう明治初期、それを支え補っていたのはやはりつくり手の「情熱」や「熱意」といった部分だったことは想像に難くない。連載2回目の今号では、同ふ化場が行った採卵・ふ化、移植試験などの概要について紹介する。

「トリート勧告」に基づくふ化事業開始は誤り?

現在も同地に残っているのは貴賓接待所として1880(明治13)年に建てられた「清華亭」だけ。内部は開放されており、「偕楽園ふ化場」に関する展示パネルもある。




 1878(明治11)年1月、前年からの準備期間を経て札幌偕楽園で北海道初の人工ふ化試験が行われる。偕楽園での試験に関しては後に、前年9月に開拓使の要請で缶詰製造の技術指導のため来道した米国人技術者U・S・トリートの勧告に基づいて着手されたとの認識が一般的だが、実際には1876年(明治9)年に茨城県那珂川で行われた人工受精法によるふ化試験に基づき、開拓史がしっかりとした準備を経た上で実施に移されたものだった。


 トリートは実際、本業だった石狩での缶詰製造の技術指導がサケのそ上不振によって11月末に早々と中止となった1877(明治10)年12月から翌年1月まで偕楽園でのふ化試験に関与している。しかし、この間、卵の移送に携わったものの、搬送途中に卵をすべて凍結・へい死させてしまった。


 彼は同年4月、当時の開拓使長官・黒田清隆に宛て報告書を提出しているが、この中でこの時のてん末について「サケ卵の人工ふ化試験に取り組んだが、運搬する際に卵が凍結してしまい失敗した。親魚を生簀(いけす)で運んで採卵すべき」との報告を残した。


十分な技術的知識を持って開拓使による試験がスタート

 トリートはあくまで缶詰製造が本職の技師。サケの増殖法に関して正しい知識を持っていたかは疑問で、卵搬送の失敗報告とともに「施設整備を行った上でサケのふ化放流事業を推進するべき」との助言も付け加えたことで、この長官宛という報告書の性質上、後年になって「彼の勧告によるもの」と間違った解釈が広まったものと推察される。


 偕楽園跡に現存する「清華亭」内にある展示パネルにも「同地でのサケふ化試験がお雇い外国人の指導で始められた」との記載があり、現地でさえも「誤った事実」が伝えられている。
 

 彼の関与が単なる立会いだったのか、指導を含めたものだったのか、はっきりと示す資料は残されていない模様だが、当時すでに卵を安全に輸送する手法(アトキンス法)が発案されており、開拓使の担当者もこれを心得ていたようだ。それを裏付けるようにトリートの失敗を受けすぐに千歳川産のサケから採取した卵4万粒前後の搬送を成功させている。


 このうち発眼に至ったのは2000粒ほどにとどまったものの、一部を函館に輸送し湧水を使ってふ化させるなど、初の試みとは言え、十分に技術的な知識を得た上での挑戦だったことがうかがえる結果を残している。ちなみに、この時にふ出した稚魚は新設された函館支庁博物館(現在の市立博物館)で展示されたという。


低い生残率も工夫を重ね積極的な移植放流


 同年9月には札幌の琴似川で約4万粒、同月に千歳川の支流漁(いさり)川で10万粒のマス(サクラ)の採卵に成功。発眼卵は琴似川産で約6000粒(歩留まり15%)、漁川産で7500粒(同7%)と少量にとどまったが、うち5000粒を東京官園に輸送したほか、約2000粒については同地で無事ふ化にこぎつけた。


 当時使われていたふ化器は長さ18寸・幅10寸・深さ6寸(1寸=約3センチ)の木箱の底に金網を張ったもので、底の網の上に卵子を敷き、流れの中に浮かべて設置するという簡単な構造の通称「浮きはこ型」と呼ばれるふ化器だった。工夫や改良を試みつつも、知見不足や技術・管理の未熟さなどからへい死率は極めて高く、当時の交通事情に伴う運搬の長時間化も関係したものと想像される。


 また、資源保護の観点からたびたび川で禁漁の命令が出される状況にもあり、当時のそうした経緯もあって親魚確保はそう簡単なものではなく、開拓使の事業とは言え、警察側との折衝にも労があったようだ。


開拓使の画師・一の瀬朝春によって画かれた「札幌偕楽園ふ化場」の施設内の様子(1878〜1879年)。左側にある水車で河川から水を汲み上げて、6つのふ化槽に設置されたふ化器へと水を絶え間なく循環させる仕組みとなっている。



 このほか、水虫などの害虫混入を防止する取り組みも行われ、この年の12月に市内豊平川で採卵した6万粒については、同じ市内で搬送に時間がかからなかったことなど好要因も手伝ったためか、記録によればうち3万5000粒(歩留まり58%)の発眼卵を確保、生残率の大幅な向上も達成している。(つづく)


「週刊サケ・マス通信」2011年3月11日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

幻の「偕楽園ふ化場」―3へ

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水産レポート > 研究 北海道初のサケ人工ふ化施設・幻の「札幌偕楽園ふ化場」−1 2013/05/08 3:04 pm

北海道初のサケ人工ふ化施設

幻の「札幌偕楽園ふ化場」−1


 北海道で初めてサケ・マス類の人工ふ化が試みられた場所をご存知だろうか? 意外に思われる方もいるかもしれない。答えは、現在の札幌市北7条西7丁目を中心に存在した「偕楽園」(かいらくえん)と呼ばれる公園内にあった施設でのこと。JR札幌駅から西へ3丁、在札水産関係団体の多くが入居する水産ビル(中央区北3条西7丁目)から北に数百メートル進んだ場所で、札幌市のほぼ中心部に当たる。


 ここで約135年前の1878(明治11)年1月に開拓使によって収卵飼育試験が行われた。同期に函館近郊の七重勧業試験場で行われた採卵試験とともに日本のサケ・マス類人工ふ化事業の黎明期(れいめいき)に位置付けられている。


 ただ、現在まで連綿と連なるふ化事業の本流は1888年(明治21)年に千歳川上流域に建設される「千歳中央孵化場」まで待たなければならず、この「札幌偕楽園ふ化場」での試みは結果的に失敗に終わり、わずか数年で事業は打ち切られることになる。今では同地に公園はもちろん、河川すら残っておらず、当時を知る建物は貴賓接待所として建てられ市の有形文化財に指定されている「清華亭」だけ。

 
 世界トップの技術と実績を誇る日本のサケ・マス人工ふ化事業―。しかし、サケに関して言えば一時のピークを期に来遊数は不安定かつ減少に向かっており、地球規模の環境変化が叫ばれ、増殖事業の民営化の流れがより加速する中、資源造成の行く末を不安視する声は多い。「原点回帰」の意味合いも込めて、短命に終わった制度上日本初の公園となる「偕楽園」と近年になって北海道大学構内に再現されたサクシュコトニ川(旧琴似川)の歴史に触れつつ、幻の「札幌偕楽園ふ化場」を短期集中連載で紹介する。


今や河川すらない札幌中心部にふ化事業の原点が


前年から準備を進め、明治11年1月に千歳川産の種卵を使ってふ化試験を成功させた札幌偕楽園ふ化場。今は川すらないが、当時は湧水に加えて池もあり、サケも普通にそ上していた。






 サケ・マス類の人工ふ化事業の概要が日本に伝わったのは、1873(明治6)年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に参加した派遣団の見聞だと言われている。「文明開化」間もない日本にとって漁業振興をはじめとする産業基盤の底上げは最重要課題と位置付けられており、この時の見聞を基に1876(明治9)年、茨城県那珂川で行われた人工受精法によるサケ卵の採取が日本で最初のサケ・マス人工ふ化事業だとされている。親魚を捕獲し3万粒ほどを採卵、同河川近くの湧水に収容し翌年春にふ化した稚魚を放流したとの記録が残されている。


 ただ、古くは江戸時代中期にすでにサケの増殖方法を具体的に記した文献が残されているなど、一部ではすでにサケの持つ母川回帰という特性についての認識が持たれていたことが知られている。独自のサケ文化を持つ新潟県では18〜19世紀に「種川制」と呼ばれる自然産卵を助長・保護する資源維持の取り組みが行われており、その豊かな資源が藩の財政を助けたとも伝わる。古来からサケにとても馴染みの深かった日本人ならではエピソードだ。


 札幌の偕楽園でふ化事業の準備が進められたのは、那珂川で実施された試験の約1年後、1877(明治10)年のこと。偕楽園は1871(明治4)年、開拓判官・岩村通俊(後に初代北海道庁長官)によって造成された札幌最初の公園で、公制度上の公園としては日本で最初のものとされている。当時この付近は開拓使が主に農畜産業における試験・普及事業を行う通称「官園」と呼ばれる一帯で畑が広がっていた。

 
 このため偕楽園は単に住民の憩いの場としての役割だけでなく、ふ化施設とともに育種場や博物館などが建設されるなど、言わば現在の試験・学術研究機関の原点ともなる道内産業振興の拠点的な役目を担う非常に重要なエリアだったと言える。

 
 元来は緑豊かな原始林が生い茂る地区で、現在は市内でも中心地に程近いという印象が強いが、当時は東西の起点となっている創成川沿いから開発が進んだこともあって、まだまだ自然豊かな地域だった。水産ビルの西側に広大な敷地を持つ現存の北大植物園もこの流れで同地に造成されたもので、起源は偕楽園内の博物館に当たる。



千歳川産サケから約5万粒を採卵、移植しふ化に成功



 豊かな自然を背景に地下水が豊富だった札幌には自然湧水が数多くあったと伝えられ、現植物園の北側からも泉が湧き出ていた。これが集まり清流として知られたサクシュコトニ川を形成。当時の偕楽園内には小さな池も存在し、北大構内を流れ琴似川に注いでいた。


 浅い川だったが、昭和初期まではサケのそ上する姿が普通にみられたという。準備を経た1878(明治11)年1月、千歳川でメスのサケ15尾から約5万粒ほどを採卵し、偕楽園のふ化施設へ運搬、見事ふ化試験を成功させた。ただし、漁業資源の増大を図ることを目的とした本格的なふ化事業としては1888年(明治21)年、官営の「千歳中央孵化場」(現在の現在の独立行政法人水産総合研究センター北海道区水産研究所千歳さけます事業所)の開設まで待たねばならず、当時これと前後して道内各地に民営のふ化場が次々とつくられるようになったという。(つづく) 
 
 「週刊サケ・マス通信」2011年3月4日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

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